【四字熟語の処世術】只管打坐(しかんだざ)

 Date:2018年03月05日09時26分 
 Category:文学・語学 
 SubCategory:四字熟語の処世術 
 Area:指定なし 
 Writer:遠道重任


 平昌オリンピックが閉幕した。13個のメダルに日本中が興奮した。男子フィギュアでは羽生結弦選手が連覇を成し遂げ、66年ぶりの快挙に日本だけでなく世界が魅了された。スピードスケート女子500メートルでは小平奈緒選手が金を手にした。また、三人が一組で走る女子パシュートでは高木美帆、佐藤綾乃、高木菜那選手が一糸乱れぬ走りで頂点を極め、オリンピック種目に加わった女子マススタートでも高木菜那選手が金メダルを手にし、初代王座に就いた。

 日本にメダルをもたらした選手のインタビューを聞いていると、常人には窺い知れない世界に彼らがいるのが分かる。技術のレベルではほぼ横並びの一流選手にとって、その差が生まれるのは技術ではなく、極度の緊張感の中でも平常心を保てるかどうかの精神力にあるようだ。

 メディアに登場する解説者やMCから「まるで修行僧のようですね」という言葉を何度も聞いたが、まさに心を鍛錬する修行僧と同じ状況に自身を追い込んで己を見つめる時間を作っているのだろう。今回のオリンピックメダリストの一人が、毎日、時間を割いて瞑想をやっていると話していたが、意外と多くの選手が座禅瞑想を生活の一部に取り入れているのかも知れない。

 禅宗に「只管打坐」(しかんだざ)という言葉がある。曹洞宗の開祖道元禅師の禅を表す言葉だ。只管(ひたすら)座禅に打ち込み、心と体が一体となる境地に入ることをめざすものだ。

 同じ禅宗でも臨済宗では公案というのがある。師と弟子の問答だ。常識的な思考では解けない問いを師が弟子に問い、弟子はそれを考えながら禅に打ち込む。一つのことに集中することで心の揺れを止め、只管禅に打ち込んでいく。

 曹洞禅も臨済禅も方法は違うが只管禅に打ち込むと言う点では変わることはない。そもそも「禅」の字は「単」と「示」から成る。単を示す。単は単数の単だから「一」。すなわち「一を示す」ということだ。一は本来の自分自身。仏教的に言えば「本来の面目」。この本来の自分自身を明らかにすることこそが禅の目的なのではないかと勝手にだが解釈している。

 一流のアスリートが体と技を超えたところで勝負しているのは心の領域である。まさに心技体の融合をめざしているのだ。そのための心の鍛錬、それこそが本当の自分自身との出会いだ。自分自身と向き合い、自分自身を知ることで、周りの環境がもたらす緊張からその心を解き放つことができるのだ。

 何も極めることができないでいる私には到底窺い知ることのできない境地であるが、少なくともオリンピックのメダリストが至る境地は、メディアが言うようにまさに修行に没頭する禅僧の心に通じるものがあるに違いない。