【街景寸考】苦労をするということ

 Date:2019年01月30日14時02分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 「若いときの苦労は、買ってでもせよ」という諺がある。若いときの苦労は必ず将来役に立つので、苦労は自ら進んでしたほうがよいという意味だ。ただ、恥ずかしながら自分の人生の中では、あえて苦労を買ってでもしようと思ったことはない。

 この諺を初めて知ったのは高校生のときだ。野球部の練習で数えきれないノックを受けた後や、恐怖のベースランをした後に鬼コーチから何度も聞かされてきた。へたばって座り込んでいるところに「若いときの苦労は・・・」と聞こえてくるので、天からの啓示のように思えることもあった。この頃のわたしは、この言葉を真に受けていた。

 ところが、わたしが社会人になってからというもの、このときの辛かったノックやベースランが何かの役に立ったかというと、その実感を持ったことはなかった。仕事関係や人間関係のことで苦境に立たされたときに、野球の練習のことを思い起こせば頑張れると思っていたが、何の力も湧いてはこなかった。そして、体力的な辛さに耐えてきた経験があっても、それが強い人間力に繋がるものではないということを知っただけだった。

 わたしの場合、この諺の中の「苦労」という言葉を正確に理解していなかったということになる。例えば「あの人は家が貧乏で苦労していた」という話をときどき聞くことがあるが、この場合の苦労もあえてするような対象ではないように思う。貧乏を経験しなかったからといって、その人間の成長を妨げることにはならないからだ。

 確かに、金持ちのボンボンがつまらない人間になってしまうという話はよく聞くところだが、他方でその恵まれた教育環境を活かして自らの成長に弾みをかけて一人前になるという話も数えきれない。貧乏だった家の子どもが大人になって道を踏み外すという話もあるが、その逆境を乗り越えて一人前になったという話もいくらでもある。

 「病気で苦労をした」とか「両親が離婚して苦労した」という苦労も、貧乏による苦労と同じだと言えそうだ。つまりこうした境遇による苦労は、プラスに変えることもできればマイナスになることもあり、人それぞれである。故に、あえて買ってでもしなければならない苦労とは言えない。

 思うに、この諺の中で言う「苦労」というのは以下のようなことではないのか。つまり、目的をもって自分が進もうとするときに遭遇する困難のことであり、高い壁を越えるときの苦労であり、何度も失敗を重ねるときの苦労ではないかと思う。これらの苦労に正面から堂々と立ち向かっていくことで、多くを学び、強い精神力を養い、その後の人生をしっかりと歩むことができる。真理をついた諺である。

 これまで苦労を避け続けてきたわたしには、4人の子どもを育て上げてきたカミさんが不動明王のように頼もしく思えるときがある。