【街景寸考】俯瞰して思うこと

 Date:2018年09月05日08時01分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 シマウマやバッファローなどの群れがテレビに映っているとき、その壮大な迫力に目を奪われてしまうことがある。その群れを見ていて思うことは、まだ小さな子どもの動物は別として、形や大きさ、色、模様がどれもクローンのように見えるということだ。

 人間が動物のように群がっている場合はどうか。人間は他の動物と違って個性を持っているので、多少離れていても個々の違いを区別することができる。動物もそれぞれに個性を持っているように見えなくはないが、少なくとも人間の場合は歩き方や髪型、服装などでオス・メスの違いをほぼ区別することができる。

 更に、同じような顔をした人間でも、優しそうな表情もあれば不愛想な表情もある。悲しそうな表情もあれば険しい表情もある。聡明そうな顔付きもあれば、どこか抜けているような顔付きもある。もっと近づけば、ポジティブに生きる人間がいることや、誰かを憎んだり妬んだりする人間がいることもわかる。

 ところが、数百mの高さから人間の群れを俯瞰したときはどうか。他の動物たちの群れと同じように個々を区別することができなくなる。アリのように小さく見えるので、性格や心の有様はもちろん、男女の違いさえも区別がつかなくなる。俯瞰したときに見える人間たちの動きは、巣穴の周辺で蠢いているアリの群れと何ら変わらないように思える。

 ここで言う人間たちの動きとは、朝起きてトイレに行き、歯を磨いて顔を洗う。平日であれば朝飯を喰って職場に行き、仕事を終えれば帰宅するという動きのことである。主婦であれば、家事、育児、買い物等だ。夜は家族と過ごし、風呂に入った後、床に就く。

 こうした人間たちの動きも天上から眺めると、アリと同じようにいかにも単純、単調な動きにしか見えないはずだ。その動きからは、一人一人がまさか苦しみや悲しみを抱えているようにはとても思えない。感情のような心の動きがまるでないかのように、ただ淡々と同じ行動を繰り返しているだけのように見える。

 そこで思う。天上の神々は、人間も他の動物と同じ存在だと思っているのではないかと。ところが実際には「考える葦」として人間は存在している。そうなったのは人間自らが選択したことなのか、それとも人間を創造する際に神々が誤って付け足したことなのか。どちらにしても、人間はその余分な能力を持ったがために、苦しんだり悲しんだりしなければならなくなったのは事実だ。

 ときには人間もアリのように単純、単調な世界に身を置いて見るのもよいのではないか。そんなふうに思うことがある。