【街景寸考】賽銭泥棒のこと

 Date:2022年01月19日15時20分 
 Category:エッセイ 
 SubCategory:街景寸考 
 Area:指定なし 
 Writer:大昭寺いさじ
 いつもの総合運動公園でのジョギングコースとは別に、年末から街中のコースを新たに加えた。どちらを走るかは、その日の気分で決めている。その街中のコースの途中に47つの石段があり、そこを上ると神社の境内が現れる。

 この神社の石段もジョギングコースに加え、上ったついでに参拝をするようにした。参拝に慣れないわたしは、最初何を祈ってよいのか戸惑ったが、結局は家族の健康と安寧を祈ることにした。というより、他にも考えたが浮かんでこなかった。

 ついでに「世界平和」も祈りの中に加えようと思ったが、わたしには似合わないような、こそばゆいような、恥ずかしいような気分にもなって、止すことにした。もっとも、賽銭なしでの参拝なので、どんな祈りも届かないのかもしれないという思いもあった。

 お賽銭と言えば、防犯カメラに映し出された賽銭泥棒の様子を報道するテレビニュースを最近多く観るようになった。賽銭箱をひっくり返して200円盗んだとか、賽銭箱の引き出しをこじ開けて500円盗んだという類の報道である。お寺で合掌したあとに1500円ほど盗んだというのもあった。

 賽銭泥棒の報道を観るたびに、つい悲しく笑ってしまう。悲しくなるのは、大の男が数百円の金を賽銭箱から盗まなければならない境遇を思ってのことであり、笑ってしまうのは防犯カメラに映った犯行の様子がどこかユーモラスに見えるからだ。さほど悪質性は感じられず、盗んだ賽銭もわずかな額でしかないということで、そう思わせるのだろう。

 賽銭を盗まれたある寺の住職は、「賽銭とは祈願成就のお礼として神や仏に奉納する金銭のことであり、それを盗むのは罰当たりの行為だ」と憤慨していた。そうかと思えば、「信者がお供えした賽銭を持っていると、お金に縁のご利益がある」と言って、参拝者に分け与えている住職もいた。

 小欄で「賽銭泥棒くらい大目に見てやれよ」と言うつもりは毛頭ない。ただ、この冬場の凍える真夜中に神社や寺の境内に忍び入って、賽銭箱を懸命に漁り、挙句は数百円を盗むという行為を憎むという気持ちになれないのである。500円盗んだと仮定すれば、自宅の往復時間も含めて時給250円くらいの稼ぎでしかなかろう。

 この手の泥棒は、おそらくその日暮らしをしているのだと想像する。スマホも持っていないのかもしれない。持っていれば、困窮者に食料を無償提供する炊き出し情報を知ることができなど、何らかのセイフティーネットに繋がることができるからだ。そうなれば、賽銭泥棒を繰り返す必要もなくなるはずだ。

 賽銭泥棒のことを考えていたら、一切れのパンを盗んで懲役刑に処せられたジャンバルジャン(小説レ・ミゼラブル)と重なった。もっとも、ジャンバルジャンの場合は子どものための犯行であり自分のためではない。この点では賽銭泥棒とは異なるのではないか。

 賽銭泥棒の頻発は、コロナ禍だからと言うだけでは済まされない社会の構造的な側面もある。このことも言っておきたかった。